豊田家住宅とは?

豊田家住宅

平成18年に国登録有形文化財に指定される。江戸時代の中頃から呉服屋を営んでいた。 二階建ての母屋、中庭、二階建ての離れ、坪庭、土蔵、の順に配列された。 間口四間半、奥行き20間の敷地の京風、切り褄、桟瓦の建物。

●母屋 一階和室 明治33年(1900)年建立

良質な面皮つきの材料を使い、天井回り縁も丸物であり腕のよい大工の仕事。 天井は高さもあるが、漆が塗ってある床の間が高いようだが、もともと、もう少し床が高かった。柱に敷居の跡あり。 主人の部屋と、店の高さの差。

●母屋 二階 講談会場に使用

元は三部屋に分かれていたが、一部屋にして空間を広め、天井も撤去した。墨糸や文字を、はつり仕上げを残すため、塗装をしないで洗いだけに留めた。打吹山の良質の赤松を使った梁、桁小屋裏の四間半通しの桁や梁は、鉞はつり仕上であり、よくみられる(手斧仕上げ)よりも刃渡りが長い。窓は、大正初めに輸入されたガラス〔フローラー〕。

●太鼓橋を渡る中庭 

五輪の塔、三色に配される楓。

 

●離れ一階 坪庭のある座敷

丸窓の明り取りが良い趣を醸している。障子〔雪見障子〕の組子に面取りが施してあり、これは非常に珍しく造るのに5倍位の手間隙が掛かる。唐紙は痛んでいるが金箔を施してある。

 

●離れ二階 黒檀の床柱と烏づくりの天井

書院は3mm、欄間は1.5mmの組子を、機械のない時代によく出来たもの。天井いたが15ミリある。烏造り仕上げ〔手間隙をしっかりかけている〕床柱は黒檀、違い棚は栃、欄間は桐板を両面に「菊」が浮き彫り施してある。

●明和8年(1771) 建立の土蔵

寛延3年(1750)「鉄屋の火事」があり、当時の倉吉22ケ町700軒の家が殆んど焼失した記録がある。

倉吉は鉄屋の火事(1750)に遭ったが、その後、玉川を整備し、川沿いに燃えにくい土蔵を配置して、火の出た鍛治町を境に上の広小路を造り、これが防火区画帯であり、下の広小路は成徳小前に、30間の広さであった。 お蔭でその後火事が殆んどなく、古くからの木造の町並みが残っている。